地名が教える古い檜原村の歴史の足音
1000年以上前の昔、檜原村は関東地方では、進んだ地域でした。
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ご案内役: 桧原村出身
岡部駒橘
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為定王子
檜原城落城
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檜原城(山城)の落城は無駄な戦を避けるため
檜原城の落城
は1590年天正十八年七月十二日
小田原の北条氏が落城した時に落城した
とされている。なぜだろうか。
その年の六月に、
八王子城
は攻められて、大勢の死者を出した戦があった。
八王子の大将は金子家老が守っていたが、その時の城代家老の
横地監物
(けんもつ)は戦い利なしとみて、戦いに加わっていた僧侶や志(こころざし)ある人を連れて檜原城にやってきた。
檜原城の平山氏重などが命をかけて闘う様子をみて、戦いが無駄だと説明し、村民のためにも無益な戦いを中止させる努力をつくした。
【
檜原城 ・
八王子城 】
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檜原城・八王子城
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そのうちに小田原の城も落ち、北条氏康や、八王子城主である北条氏照も戦死したとの情報が檜原城にも伝わったので、北条氏なき今は檜原城は戦う事がなくなり、監物(けんもつ)の話を聞き、
小田原が落城した七月十二日を檜原城が落城したことにした
。
その後はどうするかを色々に話し合った。
本宿に現在「
まんじゅうや
」という屋号の家があって、そこに檜原勢が一戦を抗(こう)じようとした農兵が集まっていた。当時そこは幕を張り巡らした「まんじょう」という場所であり、現在は「まんじゅうや」と呼ばれている所である。
長い幕を張ってつくった仮の城
幔城(まんじょう)
⇒
マンジュウヤ (屋号)
集まった農兵は各家に帰ったが、幾人かの兵士は檜原城の行く末について、戦後の平山氏重や行く先を案じて城主の考えを助けた。
檜原城主の平山氏重は中里の一番高い所に
仮の館(やかた)を作り、城主や横地監物と事後の相談した。
その場所は今でも「
とののやしき
」と呼ばれていて、中里の宮田家の上にある。
今後の行き先を決めた城主である氏重は、城主でなくなるので、
僧侶になって万人の平安を祈る
ことにした。
「とののやしき」 と
「檜原城」
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とののやしき、檜原城
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氏重は仮の館に住む間に中里の秋川沿いに寺を作り、そこに住むことにした。
現在千足に伝わっている
@隠れ岩の話
A源五郎の岩の話
B城主が祈って天から
千足のわらじの話
は後世に作られた話である。
寺跡
隠れ岩
源五郎の岩
千足のわらじ
【 平山氏重 ゆかりの場所 】
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平山氏重 ゆかりの場所
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【 源五郎の岩 】
隠れ岩近くの道路から見た
「源五郎の岩」がある山。
【 隠れ岩 】
「隠れ岩」は車の左下の
木立の中にある。
(
注:
現在は木立があり、「源五郎の岩」の確認はできない。その昔は見えたかどうかは、未確認。 )
さて、中里の川向うのお寺に住んだ氏重は、息子氏久や横地監物と時たま交流を深めたり、村内や地方に出かけた。
氏重が亡くなったあと、お寺は解体され、国分寺のある所に再建したといわれる。
檜原城落城の折お寺の建立に加わった人が、国分寺の方に開拓に出かけた際に運び出したといわれ、現在も国分寺に寺が残っている。
亡き氏重は、千足の墓地に葬られていると伝えられている。
【 千足の墓地 】
平山氏重の亡後、村民(千足地区の村民)は平山氏重の霊をあがめて御陵神社を建立し、檜原村社御陵神社として敬(あが)めまつり、現在におよんでいる。
その神社の前は、御陵ッ原(=威光があって神々しい)と呼んでいて、現在の千足の集落地になっている。
【 御陵神社 】
【 御陵ッ原 】
【
千足の墓地と
御陵神社と
□
御陵ッ原】
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墓地と御陵神社と御陵ッ原
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(
注:
以上の説は、「郷土史 檜原村」 平成8年3月31日 檜原村教育委員会 発行 の説、 あるいは、一般にいわれている説、「檜原城主の平山氏重は、千足で討ち死にをした」 とは違ったものになっている。しかし、最近の岡部氏の調査では、今回の説の方が正しいだろうとのことである。
もしかしたら、一般にいわれている伝説は氏重が隠れ住んでいること、および村人達がかくまっていることを隠すためだったのかもしれない?!)
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横地監物と氏久のその後
中里の仮館(かりやかた)で話し合った後に、
横地監物
は平山氏重の息子の氏久と共に檜原の地の
白矢
の地に落ちついた。
そこは山奥の山頂のような、天に近く眺めのよい所である。
二人に同道した白矢の寺院の坊さんに従って寺に入り、今後のことを話し合った。
【 白矢の地 (車で行けます) 】
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白矢の地
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【 白矢の地から南の方角を見た景色 】
【 寺跡を示す石碑 】
横地の考えで、
氏久は白矢の寺で修行し俗世界から離れた生活を送るようになった
。横地は寺から南に少しくだって民家が二軒ばかりある所に住むことになり、しばらくの間は晴耕雨読の生活が続いた。
翌年の天正十九年、世の中が静かになり豊臣氏の時代になった春になって、
監物
は氏久を連れて名古屋の
熱田神社
に参詣(さんけい)する事にした。それは熱田神社から大神宮の分霊をミョウガ平におまつりするためであった。
旅の途中での人々の生活や暮らしを見たり聞いたりして、氏久の人生でのよき勉強にもなり、監物自身も社会の動きを知り、今後の生活に役立てようとしたと思われる。半年もかかっての長い旅が終わり、監物は住んでいる近くの沢の近くに小さな社(やしろ)を立て
大神宮の分霊をお祀りをして、大神宮と称し大切に奉拝した
。
そのため功徳があり、産物がよく実り、人々が仲良くよく働いたので生活がよくなり、近郊の人々が参詣に多く訪ねるようになり、この大神宮に参詣する人が多くなった。
横地も参詣に来た人に人生や考えを教えたので、あの大神宮様は功徳があると広まり、「
冥加
(ミョウガ)」がある大神宮として近郷に伝わっていった。その大神宮を祀った所を冥加を受ける所として、「
ミョウガ平
」と呼ぶようになった。
冥加平
は
茗荷
(ミョウガ)
平
ではなく、冥加平であった。
冥加平は食べる植物の茗荷ではなく、
知らず知らずに受ける神仏の加護である冥加
(みょうが)(=おかげ)のことであった。
【
ミョウガ平 と
白矢の寺跡 】
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ミョウガ平
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冥加平で平穏な生活を送った横地は人々に惜しまれて亡くなった。
ミョウガ平に葬るのは檜原の人々に迷惑がかかるので
小河内
の見える所に葬って欲しいとの遺言で、現在でも
横地の墓は小河内峠の西に眠っている
。
【 横地の墓 】
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横地の墓
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横地が亡きあと、氏久は
僧白
と名を変えて本宿に移り、三月に行われるハダカ祭に参加したり、氏重の元に訪ねて家を
関白
(せきのしろ)と呼んで、世を終わったと伝えられている。
(
注:
以上の説は、「郷土史 檜原村」 平成8年3月31日 檜原村教育委員会 発行 の説、 あるいは、一般にいわれている説、「監物は小河内峠を越した所で自刃(じじん)を遂げた」 とは違ったものになっている。しかし、最近の岡部氏の調査では、今回の説の方が正しいだろうとのことである。)
■参考になるサイト
三月に行われるハダカ祭について:
御とう神事 −おとうしんじ− 中世から受け継がれる“食”の神事
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