地名が教える古い檜原村の歴史の足音

 
 1000年以上前の昔、檜原村は関東地方では、進んだ地域でした。
 
《 地図多用のため、画面の切り替えには少し時間がかかります。 》
ご案内役: 桧原村出身 岡部駒橘 
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  タメサダ屋敷     その名前の由来は為定王子?!

桧原村小岩の八坂神社前の畑が「タメサダやしき」と呼ばれている。

そこは村の中でも平坦な畑が広がっていて、昔は「王子が城」と呼ばれ、東側に流れている小さな沢は「王子川」と今でも呼んでいる。

【 八坂神社の前に広がる畑 】
 
ここに出ている「タメサダ」といわれる人物と、「王子」と呼ばれる人物を調べてみると、第62代の村上天皇の第二親王の子供になり、村上天皇の孫に当たる人物に「為定」という人物がいて、「為定王子」がいたことがわかった。

【 為定の家系図 】



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【 タメサダやしき 】
 
八坂神社
の前の畑が
タメサダやしき
と呼ばれている。
昔は「王子が城
と呼ばれていた。
 
赤い線 □
囲まれた部分

を流れる川
が「王子川
と呼ばれている。

■参考になるサイト
 為平親王 - Wikipedia
 
 

  安和の変     その時、源連が檜原村にやって来た?!

村上天皇には、後継ぎをする三人の親王がいた。

村上天皇の崩御のあとは、第一子の憲平(のりひら)親王が即位して第63代の冷泉天皇となったが、体の具合が悪く二年間で退位した。

その折、藤原氏は、第二の親王である為平親王が天皇となることを恐れた。

為平親王の妻は、村上天皇の弟である源高明(みなもとのたかあきら)の娘
そのため、藤原氏は、為平親王が天皇となると源高明の権力が強くなることを恐れ、「安和(あんな)の変」を起こした。(969年)

安和の変のあと、源高明は九州大宰府に流されて、
第二子の為平親王は天皇にならず、
第三子の守平親王が第六十四代の圓融(えんゆう)天皇となった。

この安和の変では、源高明に忠誠を尽くした人も捕えられた。
しかし、その中の一人である源連(みなもとのつむら)なる人物は行方がわからない。その時、檜原村の小岩に陰(かく)れたと思われる。

源連が小岩に隠れ住んだのは、昔から小岩の地に宿辺少将高安が住み平穏な日々を過ごしていたので住みやすい場所になり、世の中に隠れていた所であり、然も京都にもつながりをもっていたからである。

注: 源高明は、後に紫式部が執筆する「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルとも言われる人物である、との説もある。)

■参考になるサイト
 為平親王 - Wikipedia     安和の変 - Wikipedia
 
 
 

  為定王子を檜原村に呼んだのは源連 

源為定がどうして檜原の小岩に隠住(ぼういん)(=隠れ住む)されたのだろう。

為定王子が小岩に住みついたのは源連(みなもと の つむら)が連れて来たからである。 安和(あんな)の変で小岩の地に隠れ住んだのは源連の考えたものである。

その時、京都の為平親王宅では子供も多く暮らしも楽でなかったので、源の連(みなもと の つむら)の誘いに応じたのだろうと思われる。

【 為平親王と その子供達 】
  

為定王子がどうして檜原谷の小岩に隠れ住んだのだろうか。
為定王子を小岩に連れてきたのは源連という京都の武人である。

源連という人は天皇の子孫であり、源高明(みなもと の たかあきら)に仕えた忠臣である。安和の変で高明が九州に流された時、藤原氏に追われて日本各地に追われて逃げた忠臣の一人で、小岩に隠れ住んでつかまらなかった。

源連がどうして小岩に隠れ住んだかといえば、小岩には奈良時代から住んでいた宿辺少将高安(しゅくべ の しょうしょう たかやす)や、橘氏と親交があり、平安時代になり京都の都が開かれても親交のある人がいたからである。

源連が小岩に隠れ住む時は、小岩の宿辺の少将高安と橘氏の力添えがあったからである。

   源 連  ⇒⇒⇒  宿辺少将高安や、橘氏

一方、当時の京都の為平親王には子供も多く暮らしも楽でなかったし、
余命少ない源高明(みなもと の たかあきら)も京都での勢力が小さかったので、 源連(みなもと の つむら)の関東(檜原谷)での生活を聞いて、
源連に三男為定の行く末を頼んだので、為定を小岩に住まわせることになった。

   源 為定  ⇒⇒⇒  源 連

連(つむら)は小岩の八坂神社前に屋敷を構え、『ためさだ やしき』と呼ばれ、現在に至っている。この場所を『王子が城』と呼ばれ、東側の沢は『王子川』と現在でも呼ばれている。

八坂神社入口の鳥居の礎石は、昔の為定王子の館(やかた)の礎石(そせき)と伝えられている。

【 八坂神社 】 【 鳥居の礎石 】
 

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館(やかた)の礎石
 
 
 

  為定は京都から八王子経由で小岩に来た

京都から檜原谷の小岩に向かった一行は、八王子の西の方でしばらく逗留することにした。 (現在の八王子市落合町か?)

小岩の為定の住む館(やかた)が出来ていなかったからである。
為定が八才になっていたので、三か月か半年位で小岩に向かった。

そこで、この地を「八つの王子」と呼んだ。八王子の地名をつける時「つの」をはずして、八王子と呼ぶようになった。

注:  八王子市公式ホームページ の『八王子市の名前の由来』の説明とは違った説になっています。  この項の下欄を参照。)

為定一行は、市道山(イッポチ山)を通り、南谷の笹平を通った。笹平の年老いた老婆は、昔ここを王子様が通ったと伝えられている。

 八王子
 市道山(イッポチ山)
 笹平
 柏木野
 松生(マツバエ山)
 浅間峠
 小岩
【 八王子→檜原 ルート (推測) 】
 

より大きな地図で 為定一行 八王子 → 檜原 ルート を表示

浅間峠に出た為定王子は北谷の小岩に向かった。

この浅間峠の松生(マツバエ)の南は、地元の古い人は「ここは柏木野に行く道だ」と伝えている。笹平から柏木野を通ると浅間峠に出られるのである。

峠越しした為定一行は、小岩の新居に住むことになった。


 
注: 「八王子の名前の由来」について )


「八王子市ホームページ」 ならびに岡部駒橘氏の説明から

「八王子」の名前に関係する事柄を

時系列的に並べてみると、・・・

黒色: 八王子市ホームページの説明   赤色: 岡部駒橘氏の説明
 

913年




8人の童子(どうじ)を伴った神が現れた
916年




深沢山(ふかざわやま)を天王峰(てんのうみね)とし、周囲の8つの峰を八王峰(はちおうみね)とし、それぞれに祭祠(さいし)を建て、牛頭天王と八王子をまつる八王子信仰が始まった
988年?頃


為定王子、八王子に一時逗留
1569年




「八王子」が記録として残されているものは、北条氏康(うじやす)の書状が今のところ最初のものです
 
  

 
 

  源連の京都脱出の際にはちょっとした事件があった?!

源高明は九州の大宰府に流されたが(969〜971年)、その後許されて京都に戻った。(972年4月)

三男守平親王が圓融天皇(六十四代)になったので、藤原氏が許可したからだろう。

969年に源高明が九州に流されてから後のこと、高明の忠臣達が捕えられそうになった時、或る日、京都の東の方で19間(約34m)ばかりの塀が突然倒れたので、京都では上を下への大騒ぎとなった。

この騒ぎにまぎれて源連等が逃亡を企てて、地方に逃げて行った。

源連はよく知っている檜原谷の小岩に落ちのびて、捕まることはなかった。

982年、源高明崩ずる。その折、為平の三男為定の行く末を檜原谷の源連に頼んでいた。

源連は天皇の末裔で、源高明や為定をよく知り、信頼されていたからである。

注: 
源連は当時、左兵衛大慰(さひょうえのだいじょう)という役職にあった。
そして、叔母(おば)が源高明の母であり、
妹が高明の妻、
高明とは従兄弟(いとこ)・義兄弟という深い関係にあった。 )

 
 

  宿辺の少将 橘ノ高安   − 関東地方を守る軍 −

檜原村と呼ばれたのは江戸時代からであり、400年位経(へ)ている。
それ以前は檜原谷と呼ばれ、約900年の歴史をもっている。

奈良時代(710〜794)前の大和時代に、奈良県と大阪府の間にある高安山には外敵を防ぐ大和軍が山にこもって外敵を防ぐ働きをしていた。

奈良時代の730年頃から奈良朝の時代となり、外敵を防ぐ大和軍は朝廷に仕える軍と関東地方を守る軍に分かれ、その一部が檜原谷に住みついた。西暦730〜740年頃と思われる。

より大きな地図で 高安山 を表示

檜原に住みついた人々は宿辺の少将高安橘軍に率いられた人々であり、神戸(かのと)から本宿(もとしゅく)方面は橘軍が治めたので今でも橘橋が残っている。

注:  下の地図 【 阿伎留 の発祥地 】  の中の橋が 「 橘橋 」 である。)

檜原谷の北谷と南谷の川は大川と呼ばれ、本宿で一緒になり東に流れている。その様子をみて橘氏は
 
曲り角を 『 (あ) 』 と呼び、
分かれた川は 『 (き) 』 と呼び、
とどまるような流れを 『 (る) 』 と呼び、

阿伎留(あきる)』
と呼ぶことにし、
阿伎留 と呼ぶよう名付けたようで、
今でも 阿伎留 の名が残り、
時代を経て 秋川 と呼ぶようになった
と思われる。
  【 阿伎留 の発祥地 】
 

より大きな地図で 阿伎留 の発祥地 を表示
 


阿伎留

秋留

秋川



川の流れ
 

【 橘橋から見た「阿伎留」 】
 

 
小沢から西の方は、高安が勢力を持っていた。

その例は、小岩には桑原
(くわばら)と呼ぶ所があり、
そこに蚕の塚もあり、
 
王子が城』と呼ぶ所には『くらやしき』と呼ばれる穀倉のあとがある。
【 「桑原」  と  「王子が城」
 

より大きな地図で 「桑原」 と 「王子が城」 を表示

注: 桑原の蚕の塚、王子が城のくらやしきについては、未確認。現在調査中。 )

南谷の人里(へんぼり)は朝鮮語であり、そこには奈良時代の制作とされる五大尊の仏像があり、五社神社に祭られている。

・ 大日如来
・ 不動明王
・ 牛頭(ごず)明王
・ 金剛夜如明王
・ 軍多利明王
の五体であったが、
軍多利明王は行方不明となった。
【 五社神社 】
 

より大きな地図で 五社神社 を表示
人里の稲村と呼ばれる所には蚕の塚があり、今も残っている。

柏木野(かしわぎの)と呼ばれる所には蚕の塚があり、そばに穀倉(こくぐら)がおかれた石積みの所があり、

秋川には『はったて』(=蚕の織物)と呼ばれる所があり、昔の織物が残されていて、

人の面(めん)も五十個残されている。
「稲村」、「柏木野」、「はったて」】
 

より大きな地図で 稲村、柏木野、はったて を表示
このような高安の勢いが残っている檜原谷に源の連が隠れ住み、為定王子を連れて来たのは当時の流れである。

注:
 ・ 穀倉=年貢米を管内から集めて貯えていた共同の倉庫、「郷倉」(ごうぐら、ごうくら)と呼ばれたいた。

 ・ 人里の蚕の塚、柏木野の蚕の塚、穀倉がおかれた石積みの所、 はったての昔の織物、人の面五十個については、未確認。現在調査中。 )

■参考になるサイト
 五社神社
 
 

  八坂神社は朝廷の命で祀られた

西暦1055年頃源氏(げんじ)八幡太郎義家が奥州征伐に向かった時、宿辺少将高安も従軍を命じられたが疫病がはやって従軍できなかった。

その後、朝廷では命(めい)を下して、八坂神社を祭らせた。

【 八坂神社 】
 

より大きな地図で 八坂神社 を表示
之は一般の兵士ではなく、為定王子が葬でられたからと思われる。

為定王子が逝去され浅間峠に祀られた時、小岩から浅間に葬られる時、村の人は悲しみ惜しんで山の中腹まで村民みんなが別れを惜しんだ。

浅間峠まで行かないで別れを惜しんだ所が
別かされ」と呼ばれ、そこには遺体を置いた大きな石がある。

為定王子は富士嶺浅間に祀られたが、檜原谷も近くの人々も大切に祀られて墓には石像も作られたが、江戸時代に檜原村の各地に持ち去られた。

持ち運んだ犯人はあとで処罰されたという。
【 別かされ 】
 

より大きな地図で 別かされ を表示
(正確な位置は不明)

為定王子を葬った所から見ての山は『御前山』と名付けられ、通称『ゆくぼ』は御前山への登り口となり、御前鑾(ごぜん すず)神社として石の社が作られた。

檜原村郷土資料館にある旗は、その御前鑾(ごぜん すず)神社の祭りの際に祠のそばに立てられた旗である。

注:
・ 御前鑾(ごぜん すず)神社の旗は、
檜原村郷土資料館 の受付で係の方に頼めば、見せてもらえるでしょう。

・ 御前鑾(ごぜん すず)神社に関しては、
狼-3 武藏・奥多摩地方のオオカミ のサイトで紹介されている。

・ 御前鑾(ごぜん すず)神社の大きな旗は、
『小さな祠に対してではなく、御前山を思ってのことだろう』  というのが岡部駒橘氏の説である。
【 神社の旗 】
 
御前鑾神社の旗
 
=(音)ラン 1.天子のみ車につける鈴  2.天子のみ車
     《明解漢和辞典(三省堂)》  )

御前山への西の方の登り口は『そうがく沢』と呼ばれ、尊(みこと)の髪の毛( 耳隠し )といわれている。

八坂神社の御神体は、疫病の神のスサノオの命である。
御前山、ゆくぼ、御前鑾神社、そうがく沢】
 

より大きな地図で 御前山、ゆくぼ、・・・ を表示

■参考になるサイト
 檜原村「八坂神社」
 
 

  御前山

為定王子が小岩の 『王子が城』 でお隠れになられたことを村民一同深く悼み、富士見浅間に崩じた時、王子様を深く祀る為に御陵の前の高い山を御前山として崇敬して御前山を王子の身形として尊ばれることにした。

東の湯久保に御前鑾神社(ごぜんすずじんじゃ)を祀り、お犬様を二匹番犬として神社を祀り、地元で大切に祭りを行った。そして、御前山への入口とした。

西の方の藤倉は「惣岳沢」と呼び、王子の頭の髪の毛をあらわして頭と耳を表現させた。中央の高い所は常に浅間峠の崩じられた墓を見守るようにして王子を見守り祀るようにしたので御前山は為定王子をあらわした山となり、標高1405米は檜原村の第二位のやわらかい山の様子を表現している。


■参考になるサイト
 狼-3 武藏・奥多摩地方のオオカミ  の中で、御前鑾(ごぜん すず)神社も紹介されている。

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  追記  約50年間の空白の時代について

為定王子が小岩に隠れ住んで逝去するまでの4〜50年間 (もしかしたら50年間余り?) の間が空白になっているが、その間は
 ・ 敬神崇祖の心で長幼の序を守り、
 ・ 勤労を重んじ、
 ・ 仲良く協力し合う生活を奨めたので、
平穏で安定できて、人々の信頼を得て平安な生活が続き、尊敬を受けたよい時代が続いたのだろう。

その間の生活を推測できる資料が考えられる。

昭和50年代に「王子が城」が発掘された。

その際、地中1mほどから出てきた遺物を見て、縄文時代だけではなくそれより後の遺物と考えられた。その時見学していた筆者に対し発掘を行った檜原村藤倉出身の小泉新策医師が「この遺物の意義づけは岡部に任せる」と伝えてくれた。

それから25年間、遺物は残されたが意義づけはされなかった。

今回、このホームページで為定屋敷の話を進めた時、その遺物が「タメサダやしき」といわれる所から発掘されたので為定時代の遺物と考察されるので、遺物を更に調べてみる必要性を感じ、遺物を為定時代のものと考えて検討してみた。

発掘に携わった人は、タメサダやしき前のもりごしの土屋栄一氏と、隠居の清水盛一氏である。 (えいちゃん、もりさんであった。)


 
注: 岡部駒橘氏によれば次のような経緯である。 )

25年前に、檜原村藤倉出身の小泉新策医師が王子が城の発掘をした。
(「王子が城」の名前からして何かあるのではと考えてのことだろう。)
 
出土品が檜原村の他の地区で見られる縄文時代の遺物とは違うので、
この遺物の意義づけは岡部に任せる」と小泉新策医師から伝えられた。
 
        ↓
 
その数年後、「王子が城」の一角の地主の清水富士重氏にたまたま出合った際、
ここはタメサダヤシキ」だと伝えられた。
しかし、当時その意味は不明。 タメ=溜め? などとも、考えていた。
 
        ↓
 
その数年後、同じ檜原文化財専門委員会のメンバーから、
「王子が城」の王子 はどの王子のことだろうとの発言。
 
        ↓
 
今から3年ほど前、色々なことを研究している過程で、
系図の中に添え書きのない 為定 という人物がいることを発見。
タメサダやしき=為定屋敷 !! ではと思い至った。
 
        ↓
 
今回、このホームページで、
王子が城=タメサダやしき=為定屋敷 として発表。
 
 

  時系列的な表現

注: 為定に関係する人達の動きを時系列的に表現してみると、次の図のようになる。)


   源為定( 981頃?〜1045頃? 没年64才前後?)、亡くなる。
   源為定が陵に葬られたのは1050頃?

   その数年後、為定王子がいたことが背景にあったため、
   朝廷の命で、疫病の神の八坂神社が祀られたのだろう、
   というのが岡部駒橘氏の説である。

 
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