地名が教える古い檜原村の歴史の足音

 
 1000年以上前の昔、檜原村は関東地方では、進んだ地域でした。
 
《 地図多用のため、画面の切り替えには少し時間がかかります。 》
ご案内役: 桧原村出身 岡部駒橘 
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  富士嶺浅間の謎

山深い浅間尾根に人があまり入らない所がある。

その場所は人里の人々や小岩の人々のほか、檜原の人々が大切にしていて大切な場所になっているので、普通の人々が入り込まなくて大事に保護している場所である。

その一つは平安時代に葬られた為定王子の山稜といわれている。

その次は檜原城の第一の城主である平山左馬ノ守末重が西暦1204年頃檜原谷の平安を祈って安置されたといわれる大日如来菩薩を祀ったところであり、村内はもちろん、近隣の人々に尊崇されて大事に祀られていた。

第三には奈良時代に檜原谷に住むようになった宿辺の少将高安の子孫と思われる山の中の塚である。

これらは檜原の人々や小岩の民衆や人里の人々の了解がなければ調べることができない。

今回はなぜ人々が入り込まないかを報告して終わることにする。

 

  浅間峠

浅間尾根は別名富士嶺浅間(仙元)ともいわれる峠が続いている。

浅間峠の西方の高い山を登ると平らな所があり、草も生えないといわれる所がある。その平地の南側には小さな社(やしろ)が祀られている。昭和初期に地元小岩地区の有志が祀ったものである。

この広場は草が生えることが少なく、まわりや社がよく見える所である。

そこに立って北谷の連山を眺めると北側に峰や谷が連なって眼前に迫ってきていてその連山の東の方に湯久保という集落がぽつんポツンと見える。

その集落の一番上の所に御前鑾(ごぜん すず)神社という石造りのお宮がある。
神社は御前山に登る入口であり、狛犬二匹が守っていて、祭日には幅一米、長さ二十米ほどの旗が作られていて、今は郷土資料館に保存されている。

この御前鑾神社を抜けて登山していくと1405米の村で二番目に高い山に着く。そこが御前山である。小さな穴があるので石を投げ捨てるとコロンコロンと音がしばらく続いたという。

この御前山から眺めると、浅間峠が眼下に広がっていて眺めのよい所である。

その西側は藤倉になり惣岳(そうがく)沢に続いている。一説には惣岳沢は昔の貴人の髪が耳を隠している姿ともいわれている。

浅間峠のこの広場から眺めると気持が落ち着いた山々が広がっている。

浅間峠の場所は由緒ある場所のようだ。

その西側は藤倉になり、浅間峠で眺める御前山をみて、想像してみて、歴史の流れを見つめることも一つのロマンとも思える。ここは地元小岩が大切にしている所である。

注:
富士嶺浅間」 は平安時代に葬られた為定王子の山稜であったことから、
檜原の人々にとって大切な場所であり、
 ・為定王子を葬った所から見ての山は 『御前山』 と名付けられ、
 ・通称 『ゆくぼ』 は御前山への登り口となり、
 ・御前鑾(ごぜん すず)神社として石の社が作られた。

その御前鑾(ごぜん すず)神社の祭りの際に祠のそばに大きな旗が立てられた。

というのが、岡部駒橘氏の説である。 )


■参考になるサイト
 YouTube-浅間嶺・入沢山・松生山への道程6/8@東京都檜原村
   の最後の最後の方に浅間嶺の頂上が出てくる。
   1/8から見れば、登山した気分になれるかも・・・。

注: 岡部駒橘氏によれば、YouTube に出てくる登山道は、かつては北谷と南谷の往来に使われていた道である。昔は年に一度村の人々が補修して、現在の二倍の幅があり、馬も往来した。 )
 

 
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  富士嶺浅間についてお問い合わせをいただきました

 お問い合わせ内容:
 
■浅間尾根を歩いたときに、浅間嶺の下の広い休憩所の近くに小さな祠がありました。その周辺に、昔、お寺があったと聞きましたが、それは本当ですか?
■それと、浅間尾根は生活道のほか、修験道でもあったのでしょうか?
■また浅間尾根のいわれについてご教示をお願いいたします。宜しくお願いいたします。

 岡部駒橘氏の回答: (口述したものを編集担当が文章にしました)
 
 小さな祠と、お寺があった場所
浅間嶺には檜原城主が祀った大日如来や、それ以前に造られた石碑で囲まれた大変立派な為定王子の陵(浅間様)があった。そして、それより下の平になっている場所にはお寺があった。もしかしたら、かつてのお寺を偲ばせる石が今でも見つかるかも知れません。

お寺が完成した際に、お坊さんが40人も集まって法要あげたとの老人の言い伝えがある。当時檜原村のお寺は25〜6あった。それ以外に近隣の、小宮、西原、棡原、小菅、数馬、人里、上川乗、下川乗、等だけではなく、京都からもお坊さんが集まったのだろう。

江戸時代の1700年に富士山の噴火があったとも言われている。1770年頃から東北地方中心に飢饉がはじまり、1782〜1787年には天明の大飢饉があった。一方、1780年前後は為定王子の生誕800年に当たる。そんな事情から、1780年前後(年代については定かでない)に世の安泰を願うと同時に為定王子のことを偲んでお寺を完成させ、そのために40人ものお坊さんが集まったのだろう。

しかし、江戸時代に、ここにお宮等があることを快く思わない人々によって大日如来等が持ち去られた。そして、持ち出した人は江戸に連れて行かれて罰を受けた。

その後、昭和の初めに大野あきさんという大工さんが何も無いのでは申し訳ないと、代わりになるものを浅間様の近くに作った。今でも残ってきる小さな祠がそれである。

 浅間尾根は生活道のほか、修験道でもあったのか
檜原村を東西に続く浅間尾根の道は村人にとって、木炭を東部に出した大事な道であった。檜原村以外にも、西原村(現在の上野原市)、小菅村(山梨県北都留郡)、今はダムに沈んだ河内村の人々も、荷物を五日市に出すために馬に乗せてこの道を通った。

途中に店が必要になり、瀬沢(小岩から登ったところ)に色々な日用品を売る店が出来た。その店は繁盛した。

浅間尾根の道を修験者も通った。修験者が落ち着いた場所として、小沢の湯久保には「うとう屋」の屋号で呼ばれる場所(謡う屋、すなわち修験者が経を謡っているように唱えていたことからついた屋号)があった。

 浅間尾根のいわれ
浅間尾根は江戸時代には仙元尾根と書かれていたが、明治になり浅間尾根と書かれるようになった。仙元とは富士山のことであり(富士山には富士仙元神社がある)、仙元尾根とは富士山の見える尾根という意味である。関東各地に富士見、富士見台、富士見平等の地名があるのと同じ由来であろう。

富士嶺浅間尾根ということになると、富士嶺も富士山が見える峰ということになるので、富士山の見える峰であり、富士山の見える尾根ということになる。いずれにしても、谷合いで生活していた檜原村の人々にとって、富士山がきれいに見える場所であった。昔の人にとっては、谷合いの居住地から富士嶺浅間まで登って行くことは、現代の人々のちょっと近所の公園に散歩に行くのと同じ感覚であったようである。

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