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人物 |
神社 |
その説明 |
墓地 |
その説明 |
1 |
為定王子 |
八坂神社 |
その後、朝廷では命(めい)を下して、八坂神社を祭らせた。
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之は一般の兵士ではなく、為定王子が葬でられたからと思われる。
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浅間尾根 |
平安時代に葬られた為定王子の山稜といわれている
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為定王子が逝去され浅間峠に祀られた時、小岩から浅間に葬られる時、村の人は悲しみ惜しんで山の中腹まで村民みんなが別れを惜しんだ。 掲載ページへ
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2 |
為定王子 |
御前鑾(すず)神社 |
為定王子を葬った所から見ての山は『御前山』と名付けられ、通称『ゆくぼ』は御前山への登り口となり、御前鑾(ごぜん すず)神社として石の社が作られた。
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3 |
平山氏重 |
御陵神社 |
平山氏重の亡後、村民(千足地区の村民)は平山氏重の霊をあがめて御陵神社を建立し、檜原村社御陵神社として敬(あが)めまつり、現在におよんでいる。
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千足 |
亡き氏重は、千足の墓地に葬られていると伝えられている。
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4 |
横地堅物 |
「冥加(ミョウガ)」がある大神宮 |
翌年の天正十九年、世の中が静かになり豊臣氏の時代になった春になって、堅物は氏久を連れて名古屋の熱田神社に参詣(さんけい)する事にした。それは熱田神社から大神宮の分霊をミョウガ平におまつりするためであった。 掲載ページへ
「冥加(ミョウガ)」がある大神宮として近郷に伝わっていった。 掲載ページへ
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小河内峠の西 |
ミョウガ平に葬るのは檜原の人々に迷惑がかかるので小河内の見える所に葬って欲しいとの遺言で、現在でも横地の墓は小河内峠の西に眠っている。 掲載ページへ
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5 |
阿加井大膳 |
赤井澤神社 |
神戸岩の上流は赤井川(あかいがわ)と呼び、少し上流に赤井澤神社が祀られている。昔のいつの頃か、ここに阿加井大膳という武士が住みついて薬草を栽培していたという話が残されている。 掲載ページへ
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6 |
橘族の首領であった人 |
座生権現 |
この神戸岩を通り座生権現を祀り信仰したのは、奈良時代にこの地に住みついた大和軍であり、奈良時代にこの地に住みついた橘族の首領であった人が、信仰する責任をもっていたようである。 掲載ページへ
この責任者は、室町時代には中里のヤワリの橘族の一族にかわり、お祀りをされるようになった。現在でも、ヤワリの人が神主となり、お祀りをつづけている。
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7 |
坂本氏 |
臼杵山頂 |
機立(ほったて)の南の沢に祀られていた社(やしろ)について、坂本氏は、社の主から三日三晩にわたり「通る馬の蹄の音がうるさいので高い所に祀るように」と告げられたと申し出て、往来から離れた高い所に祀ることになった。 掲載ページへ
祭神は十一面観音様であり、坂本氏は屈強な若者を使って、社を臼杵山頂に祀ることにした。その部下は、笹平で山頂に登る口の番をすることにした。その兵士の家は佐々木と呼んだ。社のあった柏木野内では、今でも「宮の沢」と呼んでいる。
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8 |
檜原城主の平山左馬ノ守末重氏 |
大日如来菩薩を祀ったところ(浅間尾根) |
檜原城の第一の城主である平山左馬ノ守末重が西暦1204年頃檜原谷の平安を祈って安置されたといわれる大日如来菩薩を祀ったところであり、村内はもちろん、近隣の人々に尊崇されて大事に祀られていた。
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9 |
高安の子孫 |
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浅間尾根 |
奈良時代に檜原谷に住むようになった宿辺の少将高安の子孫と思われる山の中の塚である。
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